みなさん,こんにちは。
以前の モヤモヤを言葉にすること というブログで潜在意識について触れました。今回は,その更に深いところについて書いてみたいと思います。
ただ,意識についての理論はありますが,答えがあるものではありません。ですので,理論から私が考えたり,ぼんやりしたイメージを言葉にしてみるという感じでしょうか。
「意識」という言葉自体も,「意識が回復する」「ステキなあの人を意識する」「意識高い系」などと,知覚のようであったり,精神の状態のようであったりで,それからも明確に定められないことが分かりますよね。
先のブログに,顕在意識と潜在意識を海に浮かんだ氷山で表したイメージについて書きました。そして,私が,その氷山をイメージしてふと思ったのが,「氷山も解けると海の水だよな」ということでした。
氷山はただの比喩的表現ですが,この表現は本質を表しているようにも思うのです。
意識から思考が湧いてくるとした場合,私たちが日ごろ知覚している思考って,私たちが考えようとしたのではなく,氷が固まったり,また溶けたりする様に,どこかから自然に湧いてきて,そして,いずれどこかへ消えていってしまいますよね。
スイスの精神科医であり心理学者であったユングは,個人的無意識(潜在意識)の更に深い無意識の領域に、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在する意識があるとして,それを「集合的無意識」と名付けました。
氷山のイメージでいうと,氷山の下に広がる海全体になるでしょうか。
確かに,私たちがこうして,この世にあるものの存在を認識し,朝,山頂より出た陽の光から,意味もなくありがたみを感じたり,人や動物の子どもに慈しみの感情を同じく抱くのには,その前提として共通した意識のような存在が必要となりますもの。
あたかも,私たちが使っているスマホで,それぞれのアプリが同様に作動している前提として,そのアプリを動かすためのiOSやAndroidといったシステムが,認識されずともその奥で機能しているかのようにです。
そう考えると,私たちの意識は,個々人で完結しているのではなく,その深いところで繋がっているとも考えられます。そうすると,赤の他人なんていないことになりますね。
そして,日ごろ,私たちは,「私」という個の意識を基準に過ごしていますが,その本質は,個の意識である氷山が解けたり,また固まったりしている,それらすべてを包み込んだ,海の水=全体の意識なのかもしれません。
とりとめのない話になってしまいましたが,そう考えると,「個」も全体と繋がっているのですから,「私はあなたで,あなたは私」といったふうに,時には,個の「私」から離れて過ごしてみるのもよいかもしれませんよ。
きっと,いい感じで力が抜けて穏やかな日になると思います。
また,陽を浴びて,風を感じながら,海岸や山道を散策してみたり,夕日を浴びながら黄昏れてみたりするのはいかがでしょう 笑。何とも言えぬ心地よさを感じた時には,ユングのいう集合的無意識に繋がっているのかもしれませんね。
最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。