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それぞれの世界と全体性

 

みなさん,こんにちは。

 

前回のブログの中で,このブログに流れているメッセージは,『私たちは何があっても大丈夫』なのだと書きました。

 

でも,そんなこと言われても「なかなかそうは信じられない」と思われた方も少なくないでしょう。「自分は大丈夫だとしても,現実として争いに苦しんでいる人がいるじゃないか」と感じた方もおられるかもしれませんね。

 

地球上で争いがなくなったことはなく,今もどこかで戦争は続いています。

 

では,その戦争はどこにあるのでしょうか。あなたの目の前にありますか。よくよく考えてみてみてください。

 

みなさんが,日本国内に居住されていることを想定してお聞きしましたが,目の前に戦争はありませんよね。

 

すると,「ほら,目の前のテレビで,戦争の情報が流れているじゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが,テレビが表示し流しているのは,映像と音声だというのがありのままの本質です。

 

私たちは,各々がそうして映像や音声,文字などを通して情報を得ています。そして,そこから感じる考えや思い,感情は人それぞれの解釈によって異なります。

 

戦争に関与している国や組織の名称は共通していたとしても,それに対する考えや思い,感情の部分では,私たち各々の中にそれぞれの戦争がイメージされているのです。

 

これは,離れた所で起きていることだけではなく,目の前の出来事を捉えることについても同じ。

 

ですから,戦争をはじめすべての出来事のイメージは,私たち一人ひとりの内面にあり,それに一つとして同じものはありません。各々がそれを事実として創り上げているとも言えるのです。

 

よく「真実は一つ」と言いますが,真実は,その出来事を感じ取った人の数だけあるということでもあります。

 

また,「目の前の出来事は,自分の内面を映し出したもの」という説明を,聞いたことがある方も少なくないでしょう。

 

これもある意味同じことで,生じていることはあるがままですが,そこに意味や理屈を与えているのは,それを感じ取った後の私たちの捉え方や解釈だからです。

 

ですから,そこにこだわってしまったり,苦しみがあるのであれば,私たちの内面に目を向ける必要があります。

 

しかし,通常の私たちは,外側に原因を求め,それをコントロールして自分の安全や心の安定を図ろうとする。

 

一時的に,そのような対処が必要なこともあるでしょう。しかし,それだけだと,解釈のパターンは変わりませんから,いずれ同じような出来事がまた生じてしまうというわけです。

 

どうしてその情報や出来事が気にとまり,否定的なこととして受け止めているのでしょうか。それが起こったことや続くことは,あなたへどのような影響を与えるのでしょう。

 

『私たちは何があっても大丈夫』のその「私たち」とは,私やあなたといった個々人が集まったものではありません。

 

これまでのブログにも書いてきましたが,私たちは,よくよく自分の存在を振り返ってみると,個々人だけでなく,すべての存在との間に確固たる境界はなくつながっています

 

その中で,あなたや私とされたものが,様々なことを経験し,感じ,思い,悩み,喜んだりと悲喜交々しているのです。

 

しているというより,できているんですね。それだけでいいはずなんです。

 

そして,私たちは,その上でそこに生じる思いや感情にも気づいています。映画を主人公になりきって勧賞した後のように。

 

私たちは,言うなれば,映画館の座席に座って,展開されるストーリーを楽しんでいる状態です。ストーリーはスクリーン上で展開されているので,何があったとしても大丈夫。

 

私たちの全体性に気づいてくると,そこには何とも言えない暖かみがあります。社会的に存在する私やあなたを切り離してはいない。それぞれがいて,それぞれがあるように存在しているというような。

 

それを感じていると,必然的に「大丈夫だ,なるようになる」と思えてくるのです。

 

その全体性を感じるためにも,目の前で展開されているストーリーに入り込みすぎず,そこにある思いや感情に気づいている本来の私たちに立ち返ることをお手伝いしています。

 

外側ばかりに原因を求めずに,内面に目を向けていくこともそこにつながっているんですね。

 

最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。

 

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