こんにちは。
みなさんは,量子力学って聞いたことがあるでしょうか。おそらく,多くの方が耳にされたことがあるのではないでしょうか。
私は今50代ですが,私たちが授業で学んだ,この世の物質の最小単位は原子でした。それを更に分解した最小単位が素粒子という粒であって,極小のひもの形をしている可能性があるそうです。
そうした超ミクロな領域を総称して量子といって,その分野を扱った学問が量子力学になります。私も読みかじった程度ですが,今回は,そうした学問から見た私たちの世界について書いてみたいと思います。
量子は最小単位ということなので,私たち人間の身体を含め,この世の見えるもの見えないもの全てが,量子でできているということになりますね。ただ,量子を見た人はいないので,その理論の多くは「こうした傾向がうかがえる」という解釈(仮説)になります。
ということは,人間社会が信頼している科学では,この世の本当のところを正確に証明することはできないということにもなりますよね。
でも,科学も量子でできたものを元にしていて,その量子が不明確なのですから,それもうなずけます。
量子力学の中に「観測問題」というものがあります。その代表的なもが「二重スリット実験」ですが,興味のある方は,検索してみていただけますでしょうか。たくさん説明しているページが表示されるかと思います。
そのポイントとしては,量子は,人間が意識した時には,粒となり物質として認識できるが,意識していない時には,波となって物質としては認識できないということです。
言い換えると,人が意識し認識していない時以外は,物質は存在していないということになります。人間で例えると,「体はごついけれど,とても優しいらしい〇〇さんがそこに居る」と認識するまでは,その人は存在していないということ。
いやはや何とも不思議で,「なるほど,そうか」とはちょっと受け入れられないかもしれません。
これを端的に表現すると,「在って無い」ともなりますので,私には,般若心経の中の「色即是空,空即是色」と重なって聞こえてきます。
それを訳すると「物質現象に実体はなく,ただ,逆に,実態がないという真相は,物質現象という姿をとる(実態がなく常に流動することで物質現象が成り立つ)」となります。
どうでしょう。なんだか同じことを言っているように聞こえないでしょうか。ちょっと強引ですかね 笑
私たちが,ある男性を視覚でとらえて,「〇〇さん」「ごつい体」「とても優しいみたい」と認識したとします。しかし,「〇〇さん」「ごつい体」「とても優しいみたい」ということは,思考の中で瞬時に起きていることで,そこには実態はないんですね。
スーパーで,しま模様の丸いものを見て,「スイカだ」「大きくて立派だな」「美味しそうだ」と認識することも一緒で,私たちが思考して認識するまでは,本来的には,ただそのように在るだけで,実態はなく,いわばありのままなのです。
さらに私たちは,認識したスイカから,子どもの頃に浜辺でしたスイカ割りを思い出したり,その時一緒にいた〇〇ちゃんが今どうしてるかな,なんて考えたりします。これらもすべて今ここにはなく,思考の中で生じていることです。
量子力学的に説明するとすれば,私たちが意識を向けて,視覚でとらえ,「スイカだ」「大きくて立派だな」「美味しそうだ」と認識するまでは,それは存在せず,波としてありのままに漂っているということになるでしょうか。
かなり非現実的な話になっているかもしれませんね。でも,よくよく観ていくとその本質が少しずつ腑に落ちてきます。
ただ,そこで重要なことは,私たちが物ごとを認識するということは,思考によって意味づけをしている(解釈している)ということです。そこには,解釈があるだけで実態はない。
般若心経の冒頭の訳には,「私たちを構成するあらゆるものは空(実態がないこと)であることを見極め,それにより,一切の苦悩災難から逃れた」とあります。これは,「在って無い(実態がない)」ことを見極めることが,自らを救うことにつながるということ。
どうしてそうなるのでしょう?
さらに非現実的なことを言ってしまいますが,それは,苦悩災難を煩う「個」の私が居なくなるからです。「個」の私がなければ,そこに起こる苦難災難もない。そこには,解釈のない,何の区別もされない,常に流動して移ろっていくあるがままがあります。
量子の世界から捉えれば,人間が認識して解釈しなければ,すべては波として漂い,それは何の境界もなく流動しているのです。
でも,「そんなこと言われたって…」って思いますよね。
般若心経においても,「色即是空(物質現象に実態はない)」としながらも,すぐその後に「空即是色(実態がないという真相は,物質現象という姿をとる)」としています。
これは,実態がないという「コインでいう裏」の状態があるから,「個」の私やその他のものも「コインの表」の状態として存在しているということで,「在る」と「無い」は表裏一体なのです。
だけども,私たちは,その「個」の私に起こる苦悩災難や快楽幸福をも認識し,それに気づいています。私たちは,通常,「私が苦しんでいる」と認識していますが,よくよく観てみると,私たちは,そのこと自体をも認識していませんか。
ですから,「個」の私にどっぷりなりきらずに,その気づいている私から,それを眺るようにすることをお勧めしています。そうすると,その苦しみもいずれ,流動して移ろっていくありのままへと溶け込んでいきます。
「在って無い」のですから,もっと気楽でいいのです。
最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。