池永のプロフィールにある,当相談室を開設した経緯の中に『本質的な気づき』について書いています。しかし,いったいそれがどんなものなのか大変つかみづらいかと思います。ですので,今回,それが私にどのように生じ,どう私が救われてきたのか,もう少し詳しく書いてみます。
私はそれまで,何かに強く興味をもつことがなく,それでいて何かが不足しているような感覚があり,いつも今のままではダメなのではないかと焦燥感のようなものを抱いていました。
そうした中で,作業療法士や社会福祉士の仕事や活動は一生懸命取り組んでいましたが,その中で求められる科学性(行う必要性や行うことで得られた効果を理論立てて説明すること)について腑に落ちないでいました。物事の変化の過程には,理論立てて説明のできないことの方が圧倒的に多く,その中の一部を取り上げて理由付けすることに違和感を感じていたのでした。
そして,その答えを求めたのが人間学でした。身体や心,人を取り巻く環境ということから事象を捉えるだけでなく,もっと広く異なる視点や人間の存在といったことから捉えるとどうなるのか,また,そこに何か私の人生の答えのようなものもあるかもしれないとも考えたのだと思います。それで,大学院の人間学研究科へ入学したのでした。
大学院では,これまでに学んだり深く考えたことのない人間学や死生観といった科目があり,それは人間の存在自体や生きる意味といった私たちの本質について学び考える機会となりました。また,その講義を受ける中で,なぜか気持ちが安らぎ,もっとそれに触れていたい感覚を覚えていました。そして,テキストやその他の参考文献に目を通し,私たちの存在や人生について考えていく中で,『本質的な気づき』が徐々に生じていったのでした。その気づきというのは,次のようなことです。
よくよく考えてみると「そうだよな」とも思える単純なことですが,これらがストンと私の中で腑に落ちていきました。おそらく,宗教やスピリチュアルというものも,表現方法は異なるにせよ,本来的にはこのようなことが共通してベースにあるのだと思っています。
その本質的な気づきによって,過去や未来も今ここにはなく,思考の中にしか存在しないことも認識しました。そして,目の前の事に過度に混乱することはなく,気づいている意識よりニュートラルに物事を捉えるようになりました。そうすると,目の前で起こっていることへどのように対処するのかが自然と湧いてくる感覚になります。
時には感情を揺さぶられることもありますが,それも長続きはしません。一息ついて今へ意識を置けば,本来的な安らぎがここにある感じなのです。すべては境界なく繋がっていますから,この安らぎは私だけではなくて,本来的にはすべての人やものに共通してあるものです。そして,それが絶対的な幸福でもあると私は思っています。なので,何が目の前に起きようとも,不動の幸福に包まれているため安心なのです。
そのような認識でいると,目の前で起こることに問題がなくなっていきました。そして,起きることは,絶対的な幸福に包まれた中で,起こるべくして起きていると考えるようになりました。必要以上に何かにこだわることもなくなり,同じ内容の思考がグルグルと頭の中を回るようなこともほぼなくなりました。
そのような認識に至る一つのきっかけとなった科学性については,社会生活の中で必要であることは理解していますが,すべてが繋がって境界などないと腑に落ちてからは,理屈でしかないということも一方では認識しています。そのように,目の前に起きる現実との折り合いがつくようになり,そのままを受け入れられるようになったといった感じでしょうか。そして,私同様にすべての人やものが本来的に絶対的な幸福に包まれているという確信めいた感覚があるのです。
現実の社会生活では,目の前で様々な出来事が起こり,それに対して,私たちはいろんな考えや感情を抱いて過ごしています。そして,誰しもがそれぞれ何かを背負い,苦しく自身の人生を悔やむ時もあるかもしれません。でも『本質的な気づき』からみると,私たちは私以外のものと絶妙に関係しながら生きていて,何一つも掛けてもそれは成立しません。みんな初めから必要として受け入れられた中で存在していると言えるのです。
説明が十分ではありませんが,この中から何かほんわり暖かいものを感じてもらえるとうれしいです。