みなさん,こんにちは。
前回の自分自身から離れてみるというブログの中で,私たちはみな『各々がその世界を生きている』と説明しています。
通常,私たちは目の前で起こっていることについて,その事実は一つしかないと考えます。しかし,何かトラブルが生じた時に,起こった事実に対して,双方が「真実は一つだ!」と言い分を主張したりしますよね。どうしてそうなってしまうのでしょうか。
私たちは,目の前で何かが起こると,それを目や耳,鼻,皮膚などの感覚器官で感じ取ります。そして,その感覚に対して,各々が持つ独自のフィルターを介して認識し,更に,その認識に対して喜怒哀楽という感情や思いが湧いてきます。出来事を認識する時に介するフィルターは,私たち各々がこれまでに得た教えや経験などから,記憶や信念として作り上げられてきたものです。
ですので,起きた一つの事実に対して,人の数だけ解釈があることになります。人の数だけ真実があり,そのため,当事者と相手方がそれぞれの「真実」を主張することが生じてしまうのです。そして,それはすべての出来事に言えることですので,前回のブログでご紹介した彼に,『各々がその(独自の解釈による)世界を生きている』と話したのです。
ある平日の朝,雨がひどく降った時に抱く思いはどうでしょうか。徒歩や自転車で通勤する人でしたら,「濡れちゃうし勘弁してほしいな」と思うかもしれません。しかし,日照りが続いた時の農家の人でしたら,「これで作物が潤う,ありがたいな」ときっと思うでしょう。そして,これは単純な例ですが,すべての出来事に当てはまる仕組みでもあります。
その仕組みで捉えてみると,私たち各々が,目の前の出来事に,独自のフィルターを介して意味づけをしているように考えられませんか。そして,解釈をするファイルターは,私たち自身の心の深い部分にある記憶や,無意識のうちに作られた信念などにより作られています。そうすると,私たちが解釈して認識する外の世界は,私たち自身の中にあるとも言えてきますね。
ですので,あなたの生きている世界は,あなたの解釈による認識で意味づけがされた世界です。その認識している世界が望むようなものでなければ,自分の外にあるものを変えようとするよりも,自身の心の奥に張り付いている記憶や信念,感情に気づき,癒してやることが必要なのです。
スクリーンに映し出された映画が,私たちが認識している世界だとすれば,その映画のストーリーを修正するために,映写機のフィルムに焼き付けられた写像を書き換えていくといったイメージでしょうか。そして,そうしようとすれば,フィルムに何が焼き付けられているのかを,まず認識する必要がありますよね。認識するには,リールに巻かれたフィルムを取り出して,自身で光にかざしてどんな写像が焼き付けられているのかを観て確認することが必要です。
現実において,その自身の解釈を認識する第一歩が,いま感じ抱いている自身の感情や思いを,自分自身で確認することになります。
映画を観ていると,その世界にのめり込んで手に汗を握ってドキドキしたり,涙が溢れ出てきたりしますよね。その時に,映画の主人公になりきらずに,自身でストーリーから湧いてくるドキドキや,涙の出てくる感情や思いを確認する感じです。
そして,そのドキドキや涙の元を辿っていくと,「スクリーンに映し出された映像」 ⇒ 「映写機からスクリーンに投射された光」 ⇒ 「光が当てられた映写機のフィルム」となりますね。フィルムに焼き付けられた写像に光が投影され,スクリーンに映画のストーリが流れ,それに対して私たちの感情や思いが湧いてきています。
言うなれば,映画でいうフィルムが私たちが各々に持つ,外の世界を観る際のフィルターであり,そこに焼き付けられた写像が心の奥にある記憶や信念なのです。私たちは,そのフィルターを通して出来事を捉え,そこに感情や思いを抱いています。
でも,それでは結局,「すべては自分自身の問題で,目の前の出来事に納得できていない原因は自分にあるということか」と思ってしまいそうです。しかし,その思いに至る解釈にもあなたのフィルターが掛かっているのかもしれませんよ。
あなたを含めて私たちの本質は,原因や結果,善し悪しで片付くような,区切られた小さな存在ではありません。その証拠に,そうして自分を責めてしまっていることについても,あなたは認識できているかと思います。
その自分を責めてしまっていることから一歩引いて,そこにある思いや感情を眺めてみませんか。