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すれ違いのもと

 

みなさん,こんにちは。

 

今回は,先日,私にある出来事がありましたので,その時の人と人のすれ違いの様子について書いてみます。

 

その日,妻に用事があり私は送迎係を買ってでました。そして,妻の用事が終わった後に近くのショッピングモールにて,二人で買い物をすることにしたのです。

 

それで,妻の目当ての物も見つかったため,食事をしようということになりました。

 

事前に目的とするお店を調べていて,開店していると思っていたのですが,午後3時頃という中途半端な時間でしたので,いざ行ってみると開店してなかったのです。

 

私の頭の中はお肉とビールのイメージが仕上がっていたのでがっかり。どうしようかとなり,ショッピングモールへ戻って,適当にお店を探して食べてしまおうということに。

 

そして,ここにしようと初めてのお店を選択しました。食事どきを過ぎていたため,お店の中は空いている状態。店員さんと目が合ったのですが,何も言わずに店員同士で話し始めたため,注文伺いを待とうと空いている席に座りました。

 

すると,店員さんが近づいてきて「食券を買ってください!」と店内に響き渡る声で私たちに言い放ったのでした。

 

お店の入口を入って,座席へ向かう方向とは反対側に券売機が設置してあったため,私と妻はそれに気づかなかったのです。

 

店員さんに言われ,私たちはすぐに席を立ったのですが,券売機には向かわずに,そのまま出口よりお店を出ました。他のお店に行くことを選んだのでした。

 

おそらく店員さんは感情的になっていましたし,私もとっさに感情が動き,その流れで注文しても食事を味わえないと思ったのです。

 

はて,私と店員さんの間では,どんなすれ違いが生じていたのでしょうか。

 

その時,私には,「そんな大きな声で注意するのなら,どうして入店して目が合った時に案内しないの?」だったり,「初めてなのに,これじゃあ券売機が目に付かないだろう」だったりが,思考として浮かんでたように思います。

 

店員さんからすれば,お店は空いていたものの,配達の注文が立て込んでいたりしたのかもしれません。そんな中で,初老の夫婦が入店したかと思えば注文もせずにいきなり席に座った。

 

店員さんには,「注文しないで席に着くなんてどういうつもりだ」だったり,もしかすると,前のお客さんも私たちと同じ事をしていて,「どうして同じ間違いばかりするんだ,勘弁してくれ」といった思考が浮かんでいたかもしれません。

 

では,私や店員さんのそうした思考はどのような経緯で生じてくるのでしょう。

 

私の思考は,店員さんの応対やお店のシステムを責めるようなもので,店員さんの思考は,お客さんの行動を批判していて,お互いが対峙する格好になっています。

 

端的に言うと,自分以外の人や物の責任にしているのです。基本的には,幼い子が自分の過ちを「~ちゃんが悪いんよー」と責任転嫁するのと同じでしょう。

 

どうして責任転嫁しないといけないのか。

 

それは,自分の存在価値を低下させたくないため。

 

自分の存在価値が下がることで,社会の中における自分の生き残りが脅かされるのです。

 

社会の中で生き残れなければ,自分の存在は消えて無くなってしまう。

 

自分が「個」として存在していると認識している私たちの多くは,そこに恐怖を感じます。

 

「そんなこと言ってちゃ人から認められないよ」と自分の意見を否定されたり,「どうしてそんなこともできないの」と自身を認めないような扱いを受けると,私たちは,胸の奥にズキンと響くような感覚だったり,そこからモヤモヤしたものが湧いてきて,胸のあたりを重苦しく漂うような感じがあったりしますよね。

 

時には,それが心の傷として残ることもあるでしょう。

 

そして,そのもとを辿っていくと,先ほどの「自分が無くなってしまう」という恐れに行き着くのです。

 

私は,店員さんと目が合っても声を掛けてもらえず,自分にそんな価値しかないという自動的な解釈から,小さなモヤモヤが発生した。また,大きな声で注意を受けたことで,直接的に攻撃を受けたように捉えて,反射的に,やられてはならないと感情が動いた,ということもあるかもしれません。

 

意識上で気づいていないにせよ,攻撃を受けるということは,自分を破滅に至らせるかもしれない,という恐れを生じさるでしょう。

 

店員さんについては推測になりますが,お客さんがお店のシステムを無視することは,お店を侮辱や攻撃されるという解釈にも繋がります。単純に,店員さんの手間を増やし,時間を奪われるという解釈が生じていたかもしれません。

 

職業は,人の社会での生き残りにおいて重要な価値を占めていて,得てして人は職業と自身を同化させています。

 

お店を攻撃されたという解釈が,職業を否定され,ひいては店員さん自身を否定されたという思いに繋がったことも考えられるやもしれません。

 

いずれにしても,その大元は,私たちが自分を他とは分離した「個」として存在していると認識しているということです。

 

社会における私たちは,確かに個人としてあるのですが,よくよく考えてみると,その本質は繋がってます,元来あるようでないのですよ,ということをこのブログではお伝えしています。

 

同じ幹から枝分かれして,そこに生えた葉っぱ同士で,他方を持ち上げたり貶したりしていると想像すると,ある意味微笑ましく見えたりしませんか。

 

本来,私たちは同じものを共有しているのですもの。

 

そうした認識が腑に落ちてくると,自分以外のものがまったく自分とは別なものととして思えなくなってきます。

 

どこかで繋がっている感覚。そこには,ふわりと,自分を含めたすべては,そのままでいいんだよと受け入れてくれる暖かさがある。

 

日常生活で,一時的に感情が動くことがあったとしても,そこに生じたモヤモヤを,その後も長く持ち続けることがなくなってきます。

 

そのようなことも,もっと具体的に,♪ 気づきの相談 ♪  のセッションの中ではお伝えしています。

 

話が戻りますが,お店を出た私たちは,時間的にお店もそんなに開いていないし,とりあえず帰路につくことにしました。

 

その道中で,以前より気になっていたお店が開いていることに気づき,そこで私はお肉とビールにありついたのです。

 

食事を終える頃には,すっかりその前のモヤモヤも手放し,上機嫌でそのお店を後にしたのでした。

 

最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。

 

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