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客観性

 

みなさん,こんにちは。

 

当ブログを訪問してくださる方の中には,仕事をされている方が多いことかと思います。

 

仕事をする中で,その成果を求められることもあるでしょう。そして,成果を感じてもらうためには,他者が理解しやすいように内容が客観的である必要があります。

 

また,会議や議論する中で,主観的ではなく客観的な発言を求められることもあるかもしれません。

 

今回は,その客観性ということについて思いつくままに書いてみたいと思います。

 

「客観的」とググってみると「主観を離れて独立していること。いつ、誰がみてもそうだと認められる性質」と出てきます。

 

私は福祉医療の現場に長くいますが,特に医療の現場ではより客観性が求められますね。

 

それもそうです。客観的なデータではなく,お医者さんの感覚だけで「そんな気がするので手術しましょう」なんて言われても,患者さんは受け入れられないでしょう。ですので,医療では常にエビデンス(科学的根拠)が求められる。

 

エビデンスは客観性の最たるものではないでしょうか。

 

そして,福祉現場でも医療に見習って,現在では,実施することや解釈などに対してエビデンスが求められるようになっています。

 

「エビデンス」というワードを検索してみると,教育や政治についても出てきて,そうした分野においても重要視されているようですね。

 

でも,私が医療や福祉の現場で勤務していた時に,しっくりと馴染めなかったのがこのエビデンスだったのでした。

 

最初にエビデンスの必要性について学んだ時には「なるほど,これは何に対しても必要なことじゃないか」と感じたのを覚えています。

 

それで,当時はリハビリのセラピストでしたので,患者さんへ実施した内容や経過などを客観性を持たせて説明できるように励んでいました。

 

しかし,頭の固い私には,患者さんが回復したりそうでなかったりの経過を,科学的根拠をもってして整理することができなかったのです。

 

患者さんが回復したとしても,人間には自然治癒能力(ホメオスターシス)があります。病院では医師の投薬等の治療に加え,看護師やリハビリの三職種,その他の職種も含めて患者さんへ関わっていく。また,患者さん自身の回復への意欲など精神面の影響もあります。

 

そうした経過の中で,何が功を奏して患者さんが回復したのかを,誰が聞いても明らかなように整理することができなかったのでした。

 

福祉の現場では,もっと多くの要素が支援の対象へ絡んで経過していきますから,それを厳密に客観性を持たせて説明することは至難の業かもしれません。

 

ただ,福祉や教育などの分野で謳われているエビデンスというものは,そこまで厳密なものではなく,実施する内容やその解釈などにおいて,根拠をもって行いましょう,ということなのかと思います。

 

では,「客観性」とは本来的にはどういうものなのでしょう。

 

先ほどお話したように,対象を広く捉えていくと客観性を持たせにくくなります。広く見ていくと,多くの関わりを厳密に整理することができなくなってきますから。

 

ということは,客観性を追求すると対象を限定していって,あえて考慮しない部分も生じてしまうということです。

 

繋がりのある中の一部分を切り取って伝えるため,多くの人にわかりやすくもなる。しかし,切り取らなかった他の部分に大切なことが隠されている可能性も出てきます。

 

極端な例えですが,体力が落ちて筋力が低下したため,訓練をして筋力を客観的に示せるように何㎏の重りを上げられるかを測定していったとします。数字で示せば客観的で経過が分かりやすいですね。

 

そして,筋力が付いたため身体を全体的に検査してみたら,血圧が高く胃には潰瘍ができていて,生活を振り返ってみると,人間関係のトラブルが増えていた,みたいな。

 

何でも客観的に示そうとしているのであれば,そこには,私たちの自我が持つ「自身で何でもコントロールできる」という傲慢さが隠れているようにも私は感じます。

 

しかし,目の前の事象をコントロールして,自分の思い通りの人生を過ごしている方がどれほどいるのでしょう。

 

人生の元を辿ってみると,私たちの誕生に客観性はありませんし。これは,精子と卵子が受精して云々という話ではなく。

 

私たちの多くは,気がついた時にはこの世に生を受けていたはずですから。

 

そして,私たちは,「ああすればよかった,これができなかったらどうしよう,今後は大丈夫だろうか」と後悔や心配をしつつ,時には喜んだり楽しんだりしながら,その時々を過ごしています。

 

ただ,どうせ人生は思い通りにはできないのだから,好きなように自堕落に過ごしたらいいと言いたいのでもありません。

 

何かを目指していたり与えられている役割があるのであれば,できることは無理せずにやってみる。でも,その結果はコントロールできないのだから,そこにこだわりすぎないように,やることはやったのだから良しとして,何が生じたとしても,それを受け入れていけばよいのではないでしょうか。

 

客観性からだいぶ話が逸れてしまいました 笑

 

社会生活の中で,事象を客観的に捉えていくことによって,事をよいと思われる方向へ導いたり,より多くの人の理解を得たりすることがでるので,一定の分野において客観性が必要であることは間違いないでしょう。

 

ただ,事象を客観的に整理しながらも,それは,すべてがつながって流動している中の一部を,一時的に切り取って見ていることを忘れないように,時には,ぼんやりとより広く眺めてみることも必要なのかもしれませんね。

 

物事すべてをコントロールはできませんし,事象のすべてに明確な原因があるわけでもありません。そして,客観性があるかないかを判断しているのは,私たちの主観ですから。

 

時には理屈から離れ,自身の感じている感覚や思いにも目を向け,それがあることを認めて自身を解放してあげましょう。

 

最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。

 

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