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救われるということ

 

みなさん,こんにちは。

 

先日,あるYouTubeチャンネルを観ていて,人が救われるということについて感じたことがありましたので,そのことについて書いてみます。

 

そのYouTubeは,異色な人生を送っている方へインタビューをするチャンネルで,私が観た回は,以前は反社会組織に所属していて,服役後の現在,牧師として活動されているという方でした。

 

その方は,3度目の拘留中に読んだ旧約聖書の中に,「神は悪人が死ぬことではなく,態度を悔い改めて生きることを喜ぶ」という文章を見つけ,「立ち返れ,立ち返れ,お前の悪しき道から」というフレーズに触れた瞬間に目が覚め,世界が違うように見えたと語っておられます。

 

悪人を自認して生きている様な自分でも,神は滅びることを望んでおらず,逆に愛されていることをそこに感じ取り,根拠もなく「俺はやれる,やり直せる」と人生に希望が湧いてきたとのこと。

 

そのインタビューを観ていて,おこがましくはありますが,私の経験と重ね合わせたのでした。

 

まったくシチュエーションは異なりますが,私が同様の感覚に陥ったのは,生まれてきたばかりの長男と会った瞬間でした。

 

喜びと共に,何か突き動かされるようなエネルギーが湧いてきたことを憶えています。

 

先ほどの方は,その目覚めで生き方が定まり,その後,牧師となって受刑者の方が更生するための支援や,一般住民の方への布教や相談支援など,とても尊い活動をされています。

 

私の場合は,それをきっかけとして仕事の分野を変えたものの,しっくりと修まった感覚はなく,その後もどこかに鬱々としたものを感じながら過ごしていました。

 

それについての詳細は,一番最初のブログ 『本質的な気づき』について に書いていますので,よろしければご覧ください。

 

鬱々としたものの答えを人間学に求め,それを学ぶ中でこの世の本質のようなものへ気づいたのでした。その後は,タマネギの皮を一枚ずつ剥いていくように,その気づきが深まっていったように感じています。

 

本質的な気づきは,私に安堵をもたらしました。投げやりではなく,物事にこだわることが減り,鬱々とした感覚も感じなくなって,生活が平穏なものになっていきました。

 

目の前の出来事が変わり,幸運になったということではなく,出来事は変わらずとも,その捉え方が変わったというのでしょうか。

 

「本質的な気づき」とは,一言で表現できるものではなく,このブログにこれまで書いているような諸々を含んだ全体です。

 

このブログには,一般的ではない内容も多く含まれていますが,それを読まれて惹かれるような感覚のある方は,おそらくその本質をどこかで感じ取り,そこに心地よさのようなものが伝播しているのかもしれません。

 

私の経験上,その感覚は止むことはなく,これからも他のことも通して気づきが深まっていくことと思います。

 

先ほどご紹介した方がインタビューで言われた「神に愛されている」ということ,私は各宗教を学んだ訳ではありませんが,その本質は同じことが説かれていて,表現された内容が異なっているのではないかと考えています。

 

神に愛されているということで言うと,その本質は,どんな人も見放されていないということです。どうして見放されないのか。

 

私たちがどんな状況でいて,どんな行いをしていようと,常にその背後には,それに気づいて見守っている自己がありますよね。

 

その自己は広く全体的で,私たちが日ごろ私だと思い,個として生き残ろうとしている自我を,いつも見放さずに見守っています。

 

「神」は言い換えれば,その背後にいつもある「自己」とも言えるのかもしれません。

 

その自己は,私たちを責めることなく一時も離れずに見守っています。何があっても最初から赦されていたということです。

 

回りくどく分かりづらいかもしれませんが,そこにある安堵を感じ取った時に人は本来的に救われるのではないでしょうか。

 

私たちが自分自身を責めているとしても,そのことをも赦して包み込んで見守ってくれているのです。

 

そう考えると,もうこれ以上,自分自身を諦めたり,否定したり,責めたりする必要はないかもしれませんね。

 

自分自身を赦してくつろぎましょう。

 

最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。

 

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