みなさん,こんにちは。
先日,コロナワクチンの2回目の接種を終えてきました。受付の時間をよく把握しておらず,受付開始の1時間以上前に病院に到着し,人が誰もいなくて接種日を間違えたのかと不安になるという…。私は,時間に迫られるのがどうも苦手で,何事もついつい早めに会場へ行ってしまいます。
早く行って待ってる分には特に迷惑をかけることはありませんが,私たちは,時に自分の意思を主張することがあります。そして,その主張が一方的であったりすると「あの人は自我が強い」なんて言ったりしますね。今回の私の場合だと,「早く会場に着いたので受付してもらえませんか」と主張するみたいな時に。
自我をネット検索すると,学問的にフロイトの精神分析における「イド・超自我・自我」の中で説明されていたりしますが,「自我が強い」といったときには,自我のことを「他人と区別した『わたし』という感覚」のように,私たちは捉えているように思います。では,みなさんが「あなたにとっての『わたし』とは何ですか?」と問われたらどう答えられるでしょうか。普段は考えるまでもないことですね。
おそらく,氏名や性別,職業,家庭内での立場などで説明されるのではないでしょうか。では,そのうちのどれが本来の「わたし」なのでしょうね。「〇〇会社の社長」でしょうか,「〇〇家の世帯主」でしょうか,それとも,氏名でしょうか。どうも私の場合ですと「わたしは池永泰典です」というのが比較的しっくりくるように感じます。
しかし,よくよく考えると,氏名も誕生してきた私たちに後付けされたものです。生まれた時には名前はなかったわけで,わたしそのものではありません。職業もそうですし,家庭内の立場なども同様ですよね。では,私たちの身体が「わたし」なのでしょうか。身体については,どこまでが自分なの?というブログに,本質的には個として区切られた単一のものではなく,その他のものと繋がり常に循環していることを書いています。
回りくどいですが,何が言いたいかといいますと,通常,私たちの「わたし」だという感覚である「自我」は,立場や役割であるということです。氏名も元々はなかったわけですから,生まれた後から付けられた誰それ誰べえという立場です。そしてそこに,家庭内での関係性や職業,所属しているグループ内での立場や価値観などが沢山付け足されていったものです。
仏教では「無我」という言葉で「自我」を否定しています。私たちの立場や役割,身体の「わたし」という感覚や「自我」には実態がないとしているんですね。なぜならそれらは,常に変化しいずれ移り変わり無くなってしまうもの(諸行無常)だからです。
ただ,自我に実態がないといっても,それがないと社会生活は成り立ちませんよね。「わたしは常に移り変わっているので,昨日と今日のわたしは違うわたしだ。なので,昨日の契約は今日のわたしには関係ない」なんてなってしまいそうです。
「自我」は,本来的には繋がっているものを区切って,氏名や立場,価値観などで「個」として分けたものとも言えます。分けられて,その他と対峙させられた「自我」は,本来的には繋がっているにも関わらず,その他のものと「自我」とを比べたり競争したりして,その存続を図ろうと頑張ります。自我はみんな一生懸命です。
しかし,その他と自我とを分けて比較や競争をすることで,悩みやトラブルといったものが生じてしまうのです。
ただ,私たちには「自我」である氏名や立場,価値観などを除いたとしても,「わたし」という感覚が確かにありませんか。心を静めて内面を見つめてみると,自我にも気付いている「わたし」といったような感覚が。
時には,その「気付いているわたし」から,社会生活の中で一生懸命頑張っている自我を認めてやり,解放してやってもよくはないでしょうか。気付いているわたしは,他と競争する必要もなくいつも安全安心です。「自我くん,一生懸命頑張ってるね」といった感じで認めてやりましょう。
これは「自分にやさしく」ということです。みんな一生懸命生きています。反省や後悔,不安は誰にでもありますよね。そうして認めてもらった自我は,肩の力が抜けて,必要以上に我を通さなくて済むことで,他との調和が図れて悩みやトラブルも少なくなるかもしれません。
最後までブログを読んでいただき,どうもありがとうございます。