みなさん,こんにちは。
何かに取り組んだり挑戦する時には,自信を持って行えた方がいいですよね。
自信には,根拠のあるものや,根拠がないものといった表現がされることがあります。
根拠のある場合,その根拠というものは,私たちが社会的に認められた経験があるということかもしれません。
名門と言われる学校を卒業した,スポーツの大会で優勝した,専門的な資格をもっている,講演会を行い好評を得た,大手企業に所属している,といったようなことがそれに当てはまるでしょう。
これは,自分に付随した具体的な物ごとに,根拠を感じているということです。
なので,付随した物ごとが,自分から離れてしまったり,社会的な価値が低くなってしまうと,自信も失うことになってしまう。
例えば,大手企業に勤めていたが,その企業が倒産してしまったということであったり,大手企業といっても上には上の企業が存在しますし,そことの比較をすること。名門とされる学校もそうですし,スポーツの大会で優勝してもプロには太刀打ちできないでしょう。
いずれにしても,私たちが,永遠に所持したり所属できるものはありませんから,最終的にそうした時は必ず訪れます。
私たちが,身体を持っていることもそのうちの一つです。よって,根拠のある自信は,相対的で有限ということになりますね。
ですから,できるのであれば,誰しも,根拠のない自信を感じていたいもの。
はたして,それはどこからやってくるのでしょうか。
私の個人的な感覚ですが,それは,自信というよりは信頼という言葉の方がしっくりくるように思います。
根拠のある自信は,自分に付随する具体的な物ごとに掛かっていましたが,根拠のない自信(信頼)は,特定のものに掛かっているのではなく,私たちの全体性といったものへの信頼です。
自分の人生に対する信頼とも言えるかもしれませんが,その自分にも全体性とのつながりを感じている。
自分に対する思いの比重が軽く,自分とされるものが,その他のものとのつながりの中で経過し,それがどのような結果になろうとも,そこに良し悪しはなくそのままでいい。
その結果についても,全体とのつながりの中でその後も続き,あるべくかたちで経過していく。
自分を含め,その他の様々なことや,それらの生み出す流れへの信頼ということです。
端的な言葉に換えてみると,「どうにかなる」という感覚でしょうか。
他に任せていればどうにかなるということではなく,自分なりにできることを行っていれば,その他の人や物ごととの関係性の中で,けっして悪いことにはならない。
そして,それは自分の人生だけでなく,他の人の人生においても同じ。
でも,そんなこと言われても,そんな認識になんてなれないよと思われるかもしれません。
先ほど,根拠のない自信(信頼)は,私たちの全体性への信頼だと書きました。
確かに私たちには自分というものがありますが,その自分の中で完結しているわけではありませんよね。
その他の人や物ごととの関係のなかで自分が存在し,物質的にも自分とその他の物ごとは,常につながって循環を繰り返しています。
自分というものがある,そのおもて面だけで完結せずに,そのうら面である背景にも目を向けるということです。
それは,自分の外側を見渡してみるというのではなく,逆に,自分の身体や思い,感情に目を向けていくということでもあります。
一日数分でかまいませんので,静かな落ち着いた場所で,そうして自分というものを眺めてみることとお勧めしたいところです。
そうする中で,なぜか挑戦してみたくなったり,興味を引かれることが出てくるかもしれません。
それは,きっとあなたの人生において意味のあることでしょう。
きっとどうにかなりますから,無理のない一歩から踏み出してみてはいかがでしょうか。
最期までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。