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余命

 

みなさん,こんにちは。

 

先日,ネットニュースで『「あと1年で死ぬ」何をしますか?』という記事を見つけ,気になって読んでみました。

 

元教員の方が血液のがんを患い,治療をしつつ終活されている経験より,元同僚である中学の校長先生の依頼を受けて,「命と生きること」をテーマに講座を開かれたとのこと。

 

その元教員の方は「余命宣告されてよかった」という随筆を書かれていて,講座の中で,「ゆっくりと人生にお別れができます。感謝の日々です」と述べられたそうです。

 

私たちは日々過ごす中で,ついつい生きていることが当たり前になり,いつか必ず死が訪れることを忘れてしまいます。そんな中で,こうした講座が開かれることは意味深いものがありますね。

 

私たちが,自身の死を身近に感じられないのは,死というものの状態が,実感としてわからないことも関係しているかもしれません。

 

私たちが知っているのは,すべて他人の死で,その後のことは知る由もないですから。

 

ただ,いま現在,死の宣告を受けて死を身近に感じ,それと闘っておられる方もおられることかと思います。

 

では逆に,死が訪れず,今世がずっと続くと考えてみるとどうでしょうか。

 

ずっと続くということは,その時の容姿や認知機能がどうかは別として,何をするにも期限というものがなくなります。

 

今年はフランスを旅行したいと思っていたとしても,それをいくらでも先に延ばすことができる。

 

自分で期限を決めて,毎年,異なる国や地域を旅行していけば,飽きることはないとも思えます。でも,それについても,同じ場所を何度でも,永久的に繰り返して訪れることができるのです。

 

そうなってくると,きっと「そこへ行きたい」という気持ちは小さくなってしまうでしょう。

 

ですから,死という期限があるからこそ,生を楽しむことができるとも言えそうです。

 

余命宣告を受けることは,今世に期限があることを改めて感じ,よりよい最期を迎える準備期間を与えられたとも考えられますね。

 

そうだとしても,最期は宣告よりも早まることもありますし,逆に,伸びたり取り消されることもありますので,わからないものです。

 

私の祖母は,81歳で他界しましたが,高齢になってからは「死にとうない」ということを何度も口にしていました。

 

とんちで有名な,高僧である一休さんの臨終時の言葉も「死にとうない」だったそうです。

 

悟りを開いていたであろう一休さんでも,死を受け入れられなかったのでしょうか。この話を聞いた人それぞれの解釈があろうかと思います。

 

話はそれますが,私は,自分とされる身体を自然の一部のように感じることがあります。それば,自身の身体の多くは,私がコントロールせずとも,自動的に動き機能していることを感じているから。

 

土の上に落ちた種が,何をせずとも芽を出していずれ花や実をつけたり,山や野原に自生している植物が,毎年,その時期が来ると同じように花を咲かせ,果実を実らせるようにです。

 

そして,私たちには,それらを認識し「ここに存在している」という意識がある。

 

死によって,身体は機能しなくなったとしても,その身体をも認識している意識が残ると考えてみる。

 

それは,区分けをする身体がないため,「私」や「自分」という認識もないかもしれません。私たちが苦悩する元となる「自分」がないので,いつもいつでも平穏な状態です。

 

そんな中で,テーブルの上にあるリンゴを認識したとする。その香りや酸味や甘みは十分理解しています。

 

しかし,身体をもってリンゴを手に取り,鼻に近づけて嗅いだり,大きく口を開いて果汁を飛ばしながらかじったりしてみないと,それはリアルに感じることはできませんよね。

 

同じように,私たちは,この世で身体をもってそれを自分と認識し,他との関係性の中で,感じ取ったことに意味を与えて解釈し,喜怒哀楽をよりリアルに体験している。

 

苦しみがなく,常に平穏であることもいいでしょう。しかし,こうして私たちがリアルに存在できている今は,それだけで,他に変えることのできない貴重な経験であるようにも思えてきませんか。

 

私は,「死にとうない」という言葉には,たとえ死後に意識が残ったとしても,その「リアルな経験を終えてしまうのはやっぱり惜しい」という意味合いが含まれているように思うのです。

 

それだけ,こうして生きていることだけで有り難いのだと。

 

きっと,私もいずれ「死にとうない」と言い出すことでしょう。

 

今,どんな思いや感情でいるとしても,それ自体がリアルで貴重な経験です。その経験ができていることに価値があるということ。

 

そして,その思いや感情も必ず移り変わりながら,私たちは,常に一度しかない貴重な体験の中を過ごしていくのです。

 

私たちの死というゴールが平穏だとするならば,今ここにある体験をそれほど深刻には受け止めず,もっと軽やかに,そこに苦悩があったとしても,その後の展開を楽しみに過ごしてみるのもよいかもしれませんね。

 

そんな心持ちで過ごしていると,必ず状況は変化しよくなっていきます。

 

他界し身体を通して会えなくなった人も,きっと平穏に包まれた中で,そんな私たちを見守ってくれているでしょう。

 

最後までブログを読んでくださり,どうもありがとうございます。

 

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